日本失业故事

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日本失业故事篇一
《【日本民间故事】》

【日本民间故事】爱犬的神通力

むかしむかし、藤原道長(ふじわらみちなが)という人が、京の都にお寺を建てました。

很久很久,有个叫藤原道长的人在京都建了座寺庙。

道長は白い犬を飼っており、散歩の時はいつもこの犬を連れ歩くほど可愛がっていました。

道长养了只白色狗,他很宠爱那只白狗,散步的时候经常带着狗一起。

ある日の事、道長は自分が建てたお寺の門をくぐって、お堂へお参りに行こうとすると、連れている愛犬が急に行く手をふさいで、ワンワン!ワンワン!と、何度も吠えたてるのです。

有一天,道长走过自己建的寺庙的门,正要去佛堂参拜的时候,同行的爱犬突然拦住去路,汪汪地叫个不停。

「これ、どうしたんじゃ?」道長は立ち止まって言いましたが、特に変わった様子もないなので、また歩き出そうとしました。

“这是怎么回事?”道长止住脚步说道,可是没有发现有什么异常,所以打算继续走。

すると今度は、愛犬が道長の衣のすそを口にくわえて、強くその場に引きとめるのです。

这次,爱犬用嘴咬着道长的衣角,拼命阻止他。

愛犬がこんな事をするのは、初めての事です。

爱犬做这种事还是第一次。

(これは、何か異変を伝えようとしているのか?)道長はそう思うと、その場

から一歩も動かず、お供の者に持ってこさせたいすに腰をおろしました。(这是在传达什么异常的信号吗?)道长这样想着,就没有再移动脚步,就让侍者搬来椅子坐了下来。

そして知り合いの占い師を呼び寄せると、愛犬の行動を話しました。然后喊来了熟认的占卜师,将爱犬的举动告诉了他。

すると占い師は、愛犬の様子とお寺の門をじっと見つめて言いました。「危ないところでした。この寺の門には、あなたをよく思っていない者が呪いの仕掛けております。あなたがそこを通ると、あなたに悪い事がおこります」

占卜师盯着爱犬的样子和寺庙门看了会后说道“这是个危险的地方。这个寺庙的门,被人下了对你不好的诅咒,如果你经过那座门的话,就会发生不好的事。”そして占い師は、道長が通ろうとしていた門の下の土を掘り起こしました。然后占卜师挖掘了道长想要通过的门下面的泥土。

すると土の中から、黄色い紙のこよりで二つに合わせた土器が出てきて、その土器の中に呪いの呪文が書かれた紙が入っていたのです。

从土里挖出个用黄色纸捻贴合的陶器,在那陶器里放着写了诅咒的纸。

「さて、この呪いを仕掛けた者は・・・」占い師は、ふところから取り出した紙を鳥の形にちぎると、なにやら呪文を唱えながら空へむかって投げました。“那么,下这诅咒的人会是・・・”占卜师将从口袋里取出的纸撕成鸟的形状,一边念着咒语一边扔到空中。

すると不思議な事に鳥の形の紙切れは、たちまち一羽のシラサギになって南へ飛んで行きました。

不可思议的事发生了,鸟形状的纸片不一会就变成白鹭向南飞去。

それを指差して、占い師が言いました。「それ、あのシラサギを追うのです。あのシラサギが落ちたところに、この呪いを仕掛けた者がおります」

指着那白鹭,占卜师说道“追着那白鹭,那白鹭落下的地方,就是下诅咒的人。”占い師が言うので、道長のお供の者たちがシラサギの後を追いかけました。占卜师这样一说,道长的随从们就追着白鹭跑去。

紙のシラサギはしばらく飛んで、ある町の小さなお堂の屋根の上に落ちました。

纸白鹭飞了一会后,就停在某个街道小小的佛堂的屋顶上。

お供の者たちがお堂に踏み込むと、中には年を取った一人の坊さんがいました。

随从们走进佛堂,里面有个上了年纪的和尚。

そしてお供の者たちに問い詰められた坊さんは、道長にうらみを持つ者に頼まれて、呪いの仕掛けをした事を白状したのです。

在众随从的追问下,和尚招供了对道长怀恨在心的人拜托自己下诅咒的事。お供の者たちの報告を聞いた道長に、占い師が言いました。「あなたは、よい犬をお持ちだ。この犬は小さいながらも、神通力を持っております。その神通力で呪いの仕掛けに気づき、あなたの足を止めさせたのです」

道长听了随从们的报告后,占卜师对他说道“你有一条好狗啊。虽然这狗很小,但是却有着神通力。靠着这神通力发现了诅咒,所以阻止了你的步伐啊。”それから道長は、愛犬の白い犬をますます可愛がる様になったそうです。在那之后,道长对白色小狗越发得宠爱了。

日本失业故事篇二
《余世雄讲的四个关于日本的故事[1]》

-主题:引起中国人振惊的一篇演讲!

引起中国人振惊的一篇演讲!

余世维简介: 著名跨国公司总裁,美国哈佛大学企业管理博士后、英国牛津大学国际经济博士后,美国诺瓦大学公共决策博士。现任上海慧泉企业管理咨询有限公司董事总经理,美国富顿集团中国总经理。曾服务的客户有:日本航空、飞利浦、柯达、联合利华、ABB、三得利、3M、西门子、摩托罗拉、中国电信等国内外著名企业。

下面是其演讲节选:

。。。。。我在中国大陆又读到一道学生历史考试题:甲午战争是公元哪一年爆发?签订的叫什么条约?割让多少土地?赔偿多少银两?。。。。。。(完全是死记硬背题目)

我后来到了日本大阪,才知道他们考这道题目不是这样考的,而是下面的论述题:

日本跟中国100年打一次仗,19世纪打了一仗——“日清战争”,他们叫“日清”,我们叫“甲午战争”;20世纪打了一场“日中战争”,我们叫做“八年抗战”。21世纪如果日本跟中国开火,你认为大概是什么时候?可能的远因和近因在哪里?如果日本赢了,是赢在什么

地方?输了是输在什么条件上?请分析之。

两个国家的每个学生都努力作答案。结果我们一天到晚研究割让辽东半岛、台湾澎湖列岛,赔偿二万万银两,1894年爆发甲午战争,1895年订马关条约,那又怎么样,反正都赔了嘛!银两都给了嘛!最主要的是将来可能还会打!怎么办?所以人家就分析了,日本跟中国很可能在台湾回到中国以后,有一场激战。台湾如果回到中国。中国会把基隆与高雄封锁,台湾海峡就会变成中国的内海,日本的油轮就统统走右边,走“中国未来台湾基隆和高雄”的右边。这样,会增加日本的运油成本,日本的石油从波斯湾运出来跨过印度洋,穿过马六甲海峡,上中国南海,跨台湾海峡进东海,到日本海——这条在日本叫做石油生命线;中国政府如果把台湾海峡封锁起来,日本的油轮一定要从那里经过,日本的主力舰和驱逐舰就会出动,中国海军一看到日本出兵,海军马上就会上场,那就打!

按照判断,公元2015年—2020年,这场战争可能爆发。所以,日本现在统统做了对华战争的准备,所以什么事情都要进入长期准备状态,他们的情况,现在

开始,把这个事情当作是时事,小心谨慎地在那里准备。按照他们的判断,中国跟日本的摩擦,会从东海开始,从台湾海峡开始,时间判断是2015—2020年,他们的学生统统在开始答题了。这种题目在他们那里是这么考虑的,在我们这里是“李鸿章和伊腾博文”,所以他们这就叫做“思考”(而我们那叫做“死记”!),全世界都在研究他们中学的教育,小学的教育,都在研究他们的启发性思考,而我们中国的教育就对国家的未来孤独教条化,僵化学生的思想和人生!

什么叫做“国家兴亡、匹夫有责”(就是谁都没有责任?),我们应该改成“国家兴亡、我的责任”(每个人都要自觉负责!),有谁想这样一个问题吗?我们把问题,上纲到国家,看看国家在想什么?我们来看一个概念,日本一直在不停的部署,就是随时准备做好跟中国打仗的准备。所以日本人,在这个事当中,全国都基于这种共识,不光日本国防部有这个想法,这个没有什么稀奇,而是整个日本全国都有这种想法。为什么?我讲四个道理你听听看,他们是否真的全国皆兵,全民皆兵?

第一个例子,中国大陆一个河北的石家庄,一个山西

的太原和大同是产煤的地方,你认为最大的买主是谁?是日本!其实日本这个国家是不烧煤的,你有没有注意到,为什么日本大量的向中国采购煤炭呢?其实二、三十年来日本大量不断地向中国采购煤炭,回去以后在日本的下关下船,然后统统用水泥把他封起来,封成一个个石方,然后沉在日本内部的内海的海底。听说现在已经沉下去半个太原,这些煤炭是准备将来跟中国打仗的时候要用的。公元2015年至2020年,中国跟日本可能开战。这时候中国的核潜艇可能封锁他的太平洋,中国如果那时有航空母舰,可能出动在日本海,日本主力舰如果跟中国战舰作战,就把这个煤炭挖起来烧。所以,现在就开始在采购了。所以,中国一船一船的煤运向日本去,统统沉在他的海底,我们却不知道他心中有什么想法?

第二件事情,从人造卫星看下去,整个日本是条绿色的,你知道为什么吗?因为他们的树一棵都不砍。在日本砍任何一棵树,都要经过日本政府的许可,因为他们把森林看成重要的资源。可是全日本都用筷子,那怎么办?就将中国东北、黑大兴安岭的木材统统向日本出口,从乌苏里江送下去,在海参崴装船了以后,向日本外销。所以日本人买的全部是我们东北的木

头,买回去以后全部削成筷子,给一亿一千万人口使用。当他们吃完以后,没有一根筷子是丢掉的,全部收起来,再给它磨成纸浆,卖给中国的《人民日报》印报纸。所以《人民日报》印报纸的纸浆全部是自己的木头,不过是在日本人的嘴巴上面转了一圈。

第三是中国的稀土金属,出口最大的是日本,中国稀土金属企业的老总沾沾自喜于“廉价国家资源出口创汇多少?”,却不知道日本人将这些稀土原料加工成一种粉末,涂在“点离子彩电”屏幕上,以昂贵的高价格卖给中国人,中国人的家庭买了还向邻居客人炫耀!日本要压制中国稀土企业降低价格,不降就停止进口,中国企业就要破产倒闭发不出工资,于是争相降价,相互杀价只为了讨好日本,而中国国务院稀土办公室昏聩的没有任何应对的商业战略。前段施加日本垄断提高铁矿石价格压制中国钢铁企业也是这样的战略,中国没办法!

第四件事情是在中国的云南山区一所破烂小学的课桌却写着“日本政府捐赠”的字样,我不禁为“日本鬼子从中国孩子幼小心灵开始公关腐蚀而我们的却贪污腐败不愿意投资教育”而感到悲哀!

日本失业故事篇三
《日本营销故事》

日本商人以精明、擅变的经营技巧纵横于世界经济舞台。以下几个经营故事,印证了日本商人的超凡智慧,值得有心人学习和借鉴。

黑白对比卖“抱娃”

日本有一个叫佃光雄的商人,曾把一种叫“抱娃”的玩具拿到百货公司去推销,并刊登广告作宣传,可惜,这种玩具几乎无人问津。佃光雄只得从百货公司把这种黑皮肤的“抱娃”取回来,堆放在仓库里。

佃光雄的养子是一个肯动脑筋的青年。他注意到百货公司里有一种身穿游泳衣的女模特模型,有一双雪白的手臂。他想:假若把这种黑色的“抱娃’放在女模特模型雪白的手腕上,那真是黑白分明,格外醒目。通过这样的鲜明对比,说不定顾客会喜欢“抱娃”。

做了一番说服工作之后,百货公司终于同意让女模特模型手持“抱娃”。这一招真灵!凡是走过女模特模型前的年轻姑娘都会情不自禁地打听:“这个‘抱娃’真好看,哪儿有卖的?”原来无人问津的“抱娃”一时成为抢手货。

这个青年后来又想出一个办法。他请了几位白皮肤的女青年,身着夏装,手中各拿一个“抱娃”,在东京繁华热闹的街道上“招摇过市”。这样一来,不仅吸引了大量的过往行人,连新闻记者也纷纷前来采访。第二天,报纸上竞相刊登出照片和报道,东京因此掀起了一股“抱娃”热。

中药店里开茶馆

开中药店和开茶馆是两个不同的行业,但一家日本公司把这两个不同的行业组合在一起,竟产生了意想不到的效果。

20世纪70年代的日本,人们普遍信奉西医,中医备受冷落,中药根本就卖不出去,因而经营中药的中药店境况很是凄凉。

从事中药经营的伊仓产业公司的社长石川为改变这一境况,绞尽脑汁,苦苦寻求办法。他把中药和现代生活方式的茶馆结合起来,以此来促进中药的销售。1974年9月,伊仓产业公司在东京的中央区办起了第一家中药吃茶馆。为改变中药店的阴郁气氛,石川按照茶馆的式样进行装饰,店内豪华气派,格调高雅,并且装设了空调、灯光、音响等设备。墙壁刷得雪白,地面、桌椅则全部刷成绿色,店内气氛清新宜人,散发着浓郁的现代都市生活气息。店里考究的壁柜里放着或透明、或橙黄色的各色中药饮料,有中国著名的人参药酒、鹿茸药酒等,还有掺了中药的果汁等。无论药酒还是果汁,中药味都已大大减轻。

别具一格的经营方式,立即吸引了大量的年轻顾客,店里经常座无虚席,在美妙动听的流行音乐声中,悠闲地品味既能强身健体又合口味的中药饮料。

伊仓吃茶馆成了一大热点,并带动了东京其他茶店的繁荣,全国各地寄来了数不清的信件,要求伊仓吃茶馆提供中药的订单和配药方法,过去没有人愿意吃的中药,现在成了人们竞相购买的珍品,伊仓公司因此一炮打响。

理发店“出租”女秘书

在日本东京有一家名为新都的理发店,每日顾客盈门,生意兴隆。这家理发店是靠什么招术来吸引顾客的呢?有好奇的人前去打探,发现其生意兴隆是靠“出租”女秘书。

这个新颖的创意源于发生在理发店里的一个小故事。

那是一个大雨滂沱的日子,一位顾客到店里理发。理到一半时他的手机响了,老板让他立即将一份拟好的协议打印出来,送到客户的公司。这下可把那位顾客急坏了,望着窗外的大雨和镜子里刚理了一半的头发,他进退两难。思考再三,最后还是放弃理发,冒着大雨去打印协议。结果在客户面前显得很狼狈,自己也一整天心情不好。此事虽被人们当成了笑话,却提醒了理发店的老板。于是,一个新的服务项目很快在新都理发店诞生了。

经过策划,该店雇了一位办理贸易手续的专家、一位日文打字员、一位英文打字员、一位英文翻译和两位办理文件的女秘书。如果顾客是带文件来的,在理发时女秘书就会帮你整理文件;如果顾客需要打印文件,可以在理发店里完成;如果你需要办理贸易方面的手续,店里的专家还可以为你服务。所以,顾客在等候或理发的时候也和在办公室里一样可以办公。

此项服务的推出,一下子吸引了那些每日工作繁忙的顾客,使他们觉得来理发不仅是一个很好的放松机会,而且还可以及时处理手上的工作,一举两得,而新都理发店也依靠这个特色服务,营业额成倍增加。

空药盒里的秘密

药店是很难招揽回头客的商店,因为人们生病了才会想到上药店去买药,病好了也就自然地把药店忘了。

日本千什县有一家石井药房,在办公室的墙壁上钉了31个空药盒,每一个盒子上都标上了日期。石井药房根据每天来药店买药的顾客留下的病历卡(病历卡上都写有患者的出生年月日),获得了每一个顾客的生日,然后按月、日顺序详细整理、记录下来。他们为每一个顾客都准备了一张贺卡,在上面写着:“您的健康是我们最大的心愿。如果你完全康复了,请告诉我们一声;如果您不幸仍需要用药,也请告诉我们一声,我们将竭诚为您服务。”如此充满温情与亲切问候语的贺卡,分别按当月不同的日期投入办公室墙壁上的31个相应的空药盒内,然后按日期在顾客生日的前一天寄出。这样,顾客就会在生日的当天收到这张让人感动的贺卡。当然,顾客收到的不仅是感动和关怀,病愈的顾客会很满意地记住这家药店的大名,如果下次生病便会自然想起它,尚未痊愈的顾客自然也会以它作为买药的首选。而且,他们还成为这家药店的“义务宣传员”呢!

缆车上泡温泉

在日本大阪的南部,有一处著名的温泉,温泉周围是景色秀丽的青山翠谷。来这里观光旅游的客人既要泡一泡温泉浴,又想坐缆车望一望峰峦美景。但是由于时间关系,有些人往往来不及一次完成这两项,只能二者择一,或者泡温泉,或者望山景,然后带着遗憾离开。

能不能找到两种旅游项目的共同点,使之合二为一呢?坐落在温泉附近的有田饭店的经理宇野牧人就推出了一项创意服务:“空中浴池”。

有田饭店将10个温泉澡池装在电缆车上,让它们在崇山峻岭中来回滑行。每个澡池可容纳两人,客人既能怡然自乐地泡在温泉里,又能把充满诗情画意的山谷景色尽收眼底,给人以飘飘欲仙的感觉。正因为如此,“空中浴池”引起了游客的极大兴趣,每天大约有1000多人光顾。而在星期天和节假日,更是人满为患。

都市里的悬崖

日本最大帐篷商、太阳工业公司董事长能村先生想在东京建一座新的销售大厦。善于动脑筋的他想,在寸土寸金的东京只建一座大厦,不仅一时难以收回成本,而且大厦的每日消耗也是一笔不小的开支。怎样能做到既建了大厦,又可以借此开拓新的市场呢?

万事就怕有心人,有了这样想法的能村先生便特别关注生活里的一些热点问题。当时,攀岩热正在日本兴起,且大有蓬勃发展之势,这令能村先生茅塞顿开:何不建一座都市悬崖,满足那些都市年轻人的爱好?经过调查研究,能村先生邀请了几位建筑师反复研讨,决定把十层高的销售大厦的外墙加一点花样,建成一座悬崖绝壁,作为攀登悬崖的练习场。

半年后,一座植有许多花木青草的悬崖,便昂然矗立在东京市区内,仿佛一个多彩而意趣盎然的世外桃源。练习场开业那天,几千名喜爱攀岩的血气方刚的年轻人,兴高采烈地聚集此处,纷纷借此过一把攀岩瘾。

在东京市区内出现了从前在深山峻岭才能看到的风景,这一下子吸引了人们的目光,每日来此观光的市民不计其数。而一些外地的攀岩爱好者闻讯后,也不辞辛苦到东京一显身手。

接着,能村先生又恰到好处地把握了这种轰动效应,在公司的隔壁开了一家专营登山用品的商店。很快,该店便因货品齐全,占据了登山用品市场的榜首地位。

“越能利用有利用价值的东西就越能赚钱。”这是能村先生的经营之道,而他也正是在这一理念的引导下,把大楼的外墙建成都市里的悬崖,从而赚了大钱。(来源:《世界营销评论》)

日本失业故事篇四
《精心的一家——日本民间故事》

日本失业故事篇五
《第二章 从电影看日本社会》

日本失业故事篇六
《经典日本文学有声故事集》

去年(きょねん)の木(き)

いっぽんの木と、いちわの小鳥(ことり)とはたいへんなかよしでした。小鳥(ことり)はいちんちその木の枝(えだ)で歌をうたい、木はいちんちじゅう小鳥の歌をきいていました。

けれど寒い冬がちかづいてきたので、小鳥は木からわかれてゆかねばなりませんでした。

「さよなら。また来年きて、歌をきかせてください。」と木はいいました。

「え。それまで待っててね。」と、小鳥はいって、南(みなみ)の方(ほう)へとんでゆきました。

春がめぐってきました。野(の)や森(もり)から、雪がきえていきました。 小鳥は、なかよしの去年の木のところへまたかえっていきました。

ところが、これはどうしたことでしょう。木はそこにありませんでした。根(ね)っこだけがのこっていました。

「ここに立ってた木は、どこへいったの。」と小鳥は根っこにききました。

根っこは、「きこりが斧(おの)でうちたおして、谷(たに)のほうへもっていっちゃったよ。」といいました。

小鳥は谷のほうへとんでいきました。

谷(たに)の底(そこ)には大きな工場(こうじょう)があって、木をきる音(おと)が、びィんびィん、としていました。

小鳥は工場の門(もん)の上にとまって、「門さん、わたしのなかよしの木は、どうなったか知りませんか。」とききました。

門は、「木なら、工場の中でこまかくきりきざまれて、マッチになってあっちの村(むら)へ売られて(うられて)いったよ。」といいました。

小鳥は村のほうへとんでいきました。

ランプのそばに女(おんな)の子(こ)がいました。

そこで小鳥は、「もしもし、マッチをごぞんじありませんか。」とききました。

すると女の子は、「マッチはもえてしまいました。けれどマッチのともした火が、まだこのランプにともっています。」

といいました。

小鳥は、ランプの火をじっとみつめておりました。

それから、去年の歌をうたって火(ひ)にきかせてやりました。火はゆらゆらとゆらめいて、こころからよろこんでいるようにみえました。

歌をうたってしまうと、小鳥はまたじっとランプの火をみていました。それから、どこかへとんでいってしいました。

蟹(かに)のしょうばい

蟹がいろいろ考え(かんがえ)たあげく、とこやをはじめました。蟹の考えとしてはおおできでありました。

ところで、蟹は、

「とこやというしょうばいは、たいへんひまなものだな。」

と思いました。と申(もう)しますのは、ひとりもお客(おきゃく)さんがこないからであります。

そこで、蟹のとこやさんは、はさみをもって海っぱたにやっていきました。そこにはた

こがひるねをしていました。

「もしもし、たこさん。」

と蟹はよびかけました。

たこはめをさまして、

「なんだ。」

といいました。

「とこやですが、ごようはありませんか。」

「よくごらんよ。わたしの頭に毛があるかどうか。」

蟹はたこの頭(あたま)をよくみました。なるほど毛(け)はひとすじもなく、つるんこでありました。いくら蟹がじょうずなとこやでも、毛のない頭をかることはできません。 蟹は、そこで、山へやっていきました。山にはたぬきがひるねをしていました。 「もしもし、たぬきさん。」

たぬきはめをさまして、

「なんだ。」

といいました。

「とこやですがごようはありませんか。」

たぬきは、いたずらがすきなけものですから、よくないことを考えました。

「よろしい、かってもらおう。ところで、ひとつやくそくしてくれなきゃいけない。というのは、わたしのあとで、わたしのお父さんの毛もかってもらいたいのさ。」 「へい、おやすいことです。」

そこで、蟹のうでをふるうときがきました。

ちょっきん、ちょっきん、ちょっきん。

ところが、蟹というものは、あまり大きなものではありません。蟹とくらべたら、たぬきはとんでもなく大きなものであります。その上たぬきというものは、からだじゅうが毛むくじゃらであります。ですから仕事はなかなかはかどりません。蟹は口から泡(あわ)をふいていっしょうけんめいはさみをつかいました。そして三日(みっか)かかって、やっとのこと仕事(しごと)はおわりました。

「じゃ、やくそくだから、わたしのお父さんの毛もかってくれたまえ。」

「お父さんというのは、どのくらい大きなかたですか。」

「あの山くらいあるかね。」

蟹はめんくらいました。そんなに大きくては、とてもじぶんひとりでは、まにあわぬと思いました。

そこで蟹は、じぶんの子どもたちをみなとこやにしました。子どもばかりか、まごもひこも、うまれてくる蟹はみなとこやにしました。

それでわたくしたちが道ばた(みちばた)にみうける、ほんに小さな蟹でさえも、ちゃんとはさみをもっています。

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